イスタンブールの歴史です。

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イスタンブール

イスタンブールは世界有数の、長い期間に渡って繁栄を続けている都市です。
その歴史を紐解くと軽く紀元前7世紀頃まで遡る事ができます。
イスタンブールはビザンティオン、コンスタンティノープル、イスタンブルと三つの名称を持ち繁栄を続けた都市という事になります。
ここではイスタンブールの現在までの変遷を追って行きたいと思います。

古代ギリシャ時代

古代ギリシャの時代、アテネ、スパルタなど複数の都市国家が勢力を争っていた時代にメガラという国が存在していました。
メガラはアテネの数十キロ西側の場所にる都市国家ですが、紀元前7世紀にボスポラス海峡の沿岸域に植民都市・ビザンティオンを建設しました。
このビザンティオンが現在のイスタンブールに繋がる地域となります。

古代ローマ帝国

紀元前1世紀頃には古代ローマ帝国(時期によっては共和制)がギリシャ域にも勢力を拡大し、ビザンティオンもローマ帝国の領土となります。
巨大になり過ぎて制度疲労が顕在化していたローマ帝国は、ディオクレティアヌス帝(在位284年〜305年)によって286年に東西2つに分けられ、更に293年にはそれぞれに正帝と副帝を置いて地域も実質的に4つに分ける「四帝体制」がとれらます。
ローマ帝国の東の正帝にはディオクレティアヌス、副帝にガレリウスが就き、西の正帝にはマクシミアヌス、副帝にコンスタンティウスが就きました。
統治体制は以下の様になります。

東の正帝 ディオクレティアヌス

●人物 4地域の決定権・裁決権を独占するローマ帝国の実質的な正帝。
●地域 東ローマ帝国を統治。
●首都 ニコメディア

東の副帝 ガレリウス

●人物 軍人
●地域 東ローマ帝国の北部を統治
●首都 スリエムスカ(現ユーゴ)

西の正帝 マクシミアヌス

●地域 西ローマ帝国を統治
●首都 ミラノ(イタリア)  

西の副帝 コンスタンティウス

●人物 後にコンスタンチノープルを都にするコンスタンティヌス1世の父親
●地域 西ローマ帝国の内北半分を統治
●首都 トリール(現ドイツ)

元々の帝都であったローマはどの帝の都にもならず、政治的機能を持たない街となりました。

コンスタンティヌス帝の登場

305年、ディオクレティアヌスは自ら正帝を退き、西の正帝マクシミアヌスも退位させます。
正帝には各副帝を昇格させ、あらたに軍人出身者から副帝を任命しています。
西の正帝コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス(後のコンスタンティヌスⅠ世)は一種の人質としての意味もあって東の正帝の下にいましたが、この時期に東を出て西の父親の下に移ります。
ところが合流した翌年に父コンスタンティウスが急死すると軍によってコンスタンティヌスが皇帝に担ぎあげられ、以後四帝国間での激しい争いに発展します。
この内戦にはコンスタンティヌスが勝利し、324年にはローマ帝国の再統一を成し遂げる事になります。

キリスト教の公認

西の正帝に担ぎ上げられたコンスタンティヌスは、313年にもう一人西の正帝を宣言していたリキニウスとミラノで会談します。
両者は同盟関係を結ぶと共にローマ帝国内で宗教の自由を認めてキリスト教を公認することを取り決めました。
リキニウスは会談をまとめるとた東方に遠征して東の皇帝を攻めて退位させ、自ら東の正帝として即位します。
ローマ帝国の内戦はこれによって終結すると思いきや、リキニウス帝がキリスト教の否定に転じてキリスト教徒を迫害するようになった事で両皇帝は対立関係に陥ります。
両帝の軍は324年にアドリアノープル(現エディルネ)で激突しコンスタンティヌスが勝利しまもなくローマ帝国の再統一を果たします。
アドリアノープルの戦いは古代史の中で最大の戦争と言われています。
リキニウスがキリスト教徒迫害に転じていたから、コンスタンティヌスのアドリアノープルでの勝利はキリスト教の勝利という意味ももっていました。
実際、これによってキリスト教もローマ帝国全土で公認される事となったのです。

首都の移転

330年、コンスタンティヌス帝(コンスタンティヌスⅠ世)はビザンティオンを東ローマ帝国の帝都とします。
実際には330年に帝都とする方針が出されて、年月を掛けて遷都が進められたようです。
皇帝が常在する帝都としてビサンティオンが本格的に機能するのは4世紀末のテオドシウス帝期のいなってからの事です。
コンスタンティヌス帝自身は新しい帝都をノウァ・ローマ(新ローマ)と呼んで欲しかった様で、当初は新ローマなどとも呼ばれていた様ですが結局浸透しませんでした。
代わりにほどなく帝王の名前を冠して「コンスタンティノープル」と言う名称が定着します。
またビザンティオンを都にした事から7世紀以降の東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼ばれています。

キリスト教の重要都市

コンスタンティヌス帝(コンスタンティヌスⅠ世)は313年にはキリスト教を公認するという東ローマ帝国の宗教政策の大転換を図ります。
381年にはコンスタンティノープルでキリスト教の公会議が開催されてコンスタンティノープル教会がローマ教会に次ぐ地位として認知されるようになりました。
6世紀になると、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルにハギア・ソフィア聖堂を建設し、コンスタンティノープル総主教座がおかれます。
但し宗教的にはコンスタンティノープル教会は聖像崇拝問題でローマ教会との分裂に至り、コンスタンティノープルはギリシア正教(東方教会)の拠点と見なされるようになりました。

イスラム勢力の台頭

東ローマ帝国はその後長い繁栄を続けますが、7世紀になるとアラビア半島にイスラム教勢力が台頭してきます。
イスラム勢力は力を付けてくると、次第に東ローマ帝国の領土を脅かす様になります。
674年~678年には4年にアラブ軍にわたって東ローマ帝国領海を封鎖されます。
717年〜718年にもアラブ軍に攻撃を受けますが、いずれも陥落を免れます。

その後アラブ軍の攻勢はやや弱まりますが、11世紀になるとトルコ系勢力がアナトリア地方に進出し東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の脅威となってきます。

十字軍とラテン帝国

トルコ系イスラム教勢力の脅威に晒された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝は、西欧のキリスト教諸国に十字軍の派遣を要請する事になります。
各国の派兵によって十字軍が結成されますが、次第に十字軍の中心的存在になっていったヴェネツィア商人が、コンスタンティノープルの商業利権を欲して東ローマ帝国の帝都を攻撃し支配すると言う事態が置きます。
1202~1204年の第4回十字軍によってコンスタンティノーブルはヴェネツィア商人らが建設した「ラテン帝国」によ一時的に支配されます。
コンスタンティノープルは同じキリスト教徒の略奪に遭い、多くが市民が殺害されたり性的暴行を受けました。
この時代の東ローマ帝国はカトリックでは無くギリシア正教となっていましたが、宗教的には近く非常に違和感のある侵攻に感じられます。
但しラテン帝国による支配は長くは続かず、脱出に成功した皇帝の一族がまもなくコンスタンティノープルを奪回します。

オスマン帝国

13世紀末には小アジア(アナトリア)のオスマン1世率いるトルコ系部族の勢力が台頭し、1299年にオスマン1世が小アジアの最高指導者と宣言するに至ります。
オスマンの勢力はオスマン帝国へと発展し、弱体化していた東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を急襲して領土を拡大して行きました。
1453年にはメフメト2世が率いるオスマン帝国が難攻不落と言われていたコンスタンチノープルを征服し、ビザンチン帝国を滅ぼします。
メフメト2世はコンスタンチノープルを帝都と定め、名前もイスタンブールに改名します。
イスタンブールはギリシャ語で「都市の中に」という意味を持つ名称で、征服以前から呼ばれていた地名でもあるようです。
イスタンブールをオスマン帝国の帝都として改造され、聖堂もイスラーム教のモスクに造り替えられます。
以後オスマン帝国はイスタンブールを中心に領土を大きく拡げ、歴史に残る大国となります。
オスマン帝国の代々の皇帝(スルタン)は、イスタンブールの水道施設など東ローマ帝国の整備した基盤を利用しながら、モスクやバザール、学校といった施設を建てて街を作っていきました。
イスタンブールには18世紀には56万もの人口を持つ大都市に発展していました。
しかしオスマン帝国は19世紀になると弱体化を露呈していきます。
それでもイスタンブール自体はヨーロッパと鉄道で繋がったこともあり、繁栄が続きます。

トルコ共和国

第一次世界大戦の敗戦とその後のトルコ革命を経て1923年にオスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国が成立します。
トルコ共和国政府はオスマン帝国の影響を薄める目的で首都をアンカラに移し、イスタンブールは政治の中心地ではなくなります。
1920年に戦勝国による侵攻に反対して決起したムスタファ・ケマル率いる抵抗政権がアンカラに樹立され、イスタンブールにいたスルタン一族を追放したという経緯が背景にあります。
それでもイスタンブールはオスマン帝国が倒れてからもトルコ共和国に属し、今もトルコ最大の都市にして商業の中心地として栄えています。

※参考
岩波新書「新・ローマ帝国衰亡史」南川高志
中公文庫「世界史」 ウィリアム・H. マクニール
Wikipedia

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